『独学大全──絶対に「学ぶこと」をあきらめたくない人のための55の技法』を推してくれたキーパーソンへのインタビューで、その裏側に迫る。

今回は特別編として、日本最高峰の書評ブロガーDain氏と読書猿氏のスゴ本対談「経済学編」が実現。前回の世界史編(第1回第2回第3回)に続き集まった二人に、『独学大全』とあわせて読みたいおすすめの本を挙げながら縦横無尽に語ってもらった。(取材・構成/谷古宇浩司)

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「人物」「時代背景」を読むと経済は面白くなる

読書猿:前回は、私のおすすめ本『経済人類学入門』を紹介しましたが、Dainさんが読んでよかった経済学の本はありますか?

Dain『入門経済思想史 世俗の思想家たち』(ハイルブローナー、ちくま学芸文庫)です。マルクスやケインズ、シュンペーターといった経済学の巨人たちの思想を、それを生み出す元となった時代背景とともに紹介したものです。

 これ読むと、経済的な理論なんてものは、何か客観的な事実や観察に基づくよりも、むしろ、それを主張する人の半生を色濃く反映していることが分かります。「生きざま=理論」になっていることを知れる本です。

 例えば、お金に困って友人に頼りまくっていたマルクスが、「破滅へ向かう資本主義」を構想したように、裕福でお気楽に生きたケインズが、「持続可能な資本主義」を思いつくのは自然な流れだと気づくんです。「俺強え~」のイケイケな人生だったからこそ、「経済だってイケる、俺なら」なんて考えていたんじゃないかと。

読書猿:人物を通して経済学を学ぶメリットは、経済学の理論やモデルが、みな「時代の子」だということ(これは経済学だけの話ではありませんが)が分かりやすいことだと思います。

 例えば、古典派経済学の完成者と言われるリカードには、当時「穀物法」という明確な敵がいました。「穀物法」は、地主や農業経営者の利益を保護するために、輸入制限を含む、穀物の価格維持を目的に制定された諸法令の総称ですが、リカードの自由貿易論は、直接にはこの敵を論破するために鍛えられたものです。そういう意味で時代の影響を色濃く受けている。

 一方で、穀物法がない世界でも、例えばリカードの自由貿易論の要である比較優位というアイデアが無効になったかといえば、そうではない。いろいろ条件付きになりますが、今でも立派に使える。経済学が、いつでもどこでも当てはまる普遍法則の束ではないことを忘れないためにも(経済学を悪用する詐欺は、使えないところで使うタイプのものが多いです)、「歴史の子」であることを知る価値があると思います。

 今出た、ケインズの偉いところは、短期的には色々あっても長期的にはうまくいく、という経済学のドクトリンに横槍入れるのに成功したことだと思います。街に失業者があふれても、農村で売れない作物が腐っていても、それは賃金や作物の値段が高すぎるからで、そうした「人あまり」「物あまり」はそのうち価格が下って解消すると経済学では考えたわけです。今にも死にそうに苦しんでいる失業者や農家にしたら、たまったものじゃない。

 ケインズは、名言っぽいことをいうのが得意なんですが、こういう当時の経済学に対して「長期には我々は皆、死んでしまっている」と言った。長期的には均衡状態に落ち着くとしても、短期的な不均衡がもたらす深刻な窮状に対応することを経済学のアジェンダに据えた。ベテランの経済学者はそんなもの邪道だと耳を貸さなかったけれど、若手の経済学者たちは支持した。ここで確かに経済学の潮目が変わったんです。

Dain:ケインズの影響力や凄さは分かるのですが、僕はあんまり好きじゃないんですよね。キャリアと時代が合って、うまく風に乗れた人という印象です。

 ケインズが政府による介入を訴えられたのは、たまたま、あなたの環境のおかげだといいたいです。ケインズの資産は、彼自身の努力の賜物というより、彼の家庭や生きた時代、環境のなせる業だと思います。実家が太く、ケンブリッジ大学を卒業し、財産を持っていました。裕福で、気楽に、思い通りに生きた人だから、経済も思い通りになるって思っていたんじゃないかな。

 ちなみに、ケインズのことを「評価は」しています。やったことは凄いと思うのですが、「祀り上げちゃうと、違うんじゃないのかな?」という意見です。

ケインズは「最高の俗物」

読書猿:Dainさんが、あまり好きになれないのはよくわかります。私が彼を評価するのは、「最高の俗物」だから。

 ケインズの友人で、ハイエクという“悪い奴”がいます。ハイエクの言っていることはケインズとは正反対だけど、どういう訳か、仲が良かったみたいで、ケインズの評伝みたいなものを書いている。ハイエクが描くケインズは本当に俗物で、周囲の人間を陰でバカにするような人物なんです(まあ、ハイエクが語る周辺の人物はどれも最高に俗物なんですが。ベヴァリッジ、ラスキ、そしてケインズ……中でもケインズはすばらしい)。

 ハイエクがある時、世間ではケインズの高弟であると目されているロビンソン夫人とカーンの話を当のケインズに振ったら、ケインズは次のように言ったと。

「あの二人はただのバカだよ。そりゃ1930年代には私の着想はひどく重要だったさ。インフレと戦うなんて問題はあの頃はなかったからね。しかしハイエク、任せておいてくれよ。私の着想はすでに時代遅れになった。私は世論をこんな風に(パチンと指をならして)変えてやるよ」(注1)

 ホントのエピソードなのか分からないけど、目に浮かぶようですね(笑)。余計な1アクションを加えて、忘れられない人物描写にするところなんて、ディケンズみたい(注2)。ダメ押しで「その6週間後、彼は亡くなりました」とハイエクは付け加えています。

(注1)ハイエク 述、スティーヴン・クレスゲ、ライフ・ウェナー編 、嶋津格 訳『ハイエク、ハイエクを語る』(名古屋大学出版会)より

(注2)ここで想像しているのは、ナボコフが『文学講義』で取り上げた、ディケンズ『荒涼館』に出てくるほんの端役です。この名前もない男は、馬車を呼ぶという取るに足らない仕事で、お礼の二ペンスを受け取って、次のようなアクションをします。以下、ナボコフから引用。

「『……二ペンスを受けとると、有頂天になるどころか、空中にほうり投げ、手を高くさし上げて受けとめるや、どこかにまた姿を消してゆく』。このジェスチュア、「手を高くさし上げて」という形容語句をもったこの一つのジェスチュア──実にささいなものだが──これで、この男は良き読者の心に永遠に生きることになるのだ。」

(ウラジーミル・ナボコフ.『ナボコフの文学講義 上 』(読書猿)

独学者、ミハウ・カレツキに注目する理由

読書猿:僕が経済学を嫌いになりきれない理由のひとつが、社会を扱うのに数学的なモデルを使うことに先鞭をつけた学問だからです。数学を使うと、自然言語では扱いにくい相互依存関係、お互いに拘束しあってどれが根本原因というわけでもない要素間の関係をモデル化しやすい。これに対して自然言語は、物語などで長年使われてきた伝統もあって、因果論的な説明、原因があって結果がある、といったモデルに向いている気がします。同じ理由から、経済学に数学的なアプローチを導入した人にも惹かれる。ワルラスとかサミュエルソンとか。

 そこで、もう一人取り上げたいのが、ミハウ・カレツキというポーランドの天才です。彼は独学で経済学者になった人なんです。戦後、ポーランド経済が伸びたのはカレツキの仕事が大きいと言われています。「独学者」という側面もあるので、僕が贔屓目に見てしまってるということもあるけど。

 不遇の人で、お父さんが事業に失敗して大学の工学部を辞めないといけなくなった上に、数学好きを生かし、保険計算できるからとバイト先に選んだ保険会社もつぶれてしまう。途方に暮れていたら、大好きな数学で、当時スウェーデンの経済学者たちが頭を悩ませていた問題を解いてしまって、おかげでスウェーデンで奨学金の口が見つかって、独学で経済学の道へ進んだ者になった人。後には、イギリスに渡って、ケインズと知り合ったりもしている。

 ケインズの理論を先取りするような仕事をしているけど(注3)、ケインズのようには口や文章が達者でなかった。でも、私はカレツキの数式をつかったモデルの方がモダンに感じます。

 経済のいろんな側面を数式で切り取るセンスがいいし、その能力にある程度、自信があったのだと思います。ケインズとは違う自信の持ちかたをしていたのが面白い。彼(カレツキ)によると、人類は何度も不況を経験しているので、対処法を知っている。少なくともオレは知っている、と(笑)。不況に対して何をやったらいいか、人類はもう知ってるはずだし、理論化だってできている、と。だから彼の問題意識は、「不況に対してどうしたらいいのか?」じゃなくて、一歩先の「不況に対して処方箋はすでにあるのに、じゃあ、なぜ、しないか?」というところで、今では、政治的景気循環と呼ばれる問題を扱った「完全雇用の政治的側面」という論文を書いています。

 この論文は、とても過激な内容なんです。

 要は「政治家とか実業界は不況に対応できるのに、なぜしないのか。その理由は完全雇用は革命と同じくらい彼らにとって厭うべきことだからだ」と。マルクスの言い分に似ていますよね。労働力が過剰な状態で保たれるからこそ、資本家は労働者をクビにできるんだと主張する。

 完全雇用になれば革命は必要ない。みんなやりたいようにやる。政治家はそれが嫌だから、対策できるのにしない。でも、不況が進むと企業は困る。不景気になったら、いろいろと妥協しなければいけない。たとえば、賃上げとか。そうやって、景気が良くなる方法を選ぶ。でも、雇用対策に関しては、あの手この手で潰しにかかる。そうした一連の状況を、説明している。

Dain:景気循環が政治的に行われることを数理モデルで説明したということですか?

読書猿:先に景気循環を数理モデルで表した、カレツキー自身の一連の論文があって、それを前提に書かれたものです。で、第一次大戦後、ドイツでナチスが立ち上がる。ナチスは景気対策をする一方で、労働者を暴力で抑えた。だから、資本家あるいは企業家が抱えるジレンマを解決する手段として、ヒトラーは迎えられたと、カレツキは言うんです。つまり完全雇用に近づいても労働者の「わがまま」を抑えつけて、言うことを聞かせられるだろうと。ナチスの経済政策を都合よく見過ぎている部分はあるけど、よく見ると、数理モデル屋が預言者になっているような仕事をしている。

 ただ悲しいかな、彼はポーランド語で多くの論文を発表していて、ヨーロッパの同時代人に広く読まれなかった。辺境に生まれたが故の悲哀です。もし、カレツキが英語圏やフランス語圏に生まれていたら、もっと影響力を持ったかもしれないと思います。

(注3)ケインズの主著『雇用・利子および貨幣の一般理論』が1936年刊であるのに対して、この書に含まれる多くの論点について、カレツキは1933年から1935年にかけて発表した論文で論じている。

経済学のベース「一般均衡理論」の何がすごいのか?

読書猿:数学ができて経済学に足跡を残す人は多い。もう1人紹介すると、経済学で数学を使ってスターになった人にフランスのレオン・ワルラスという人がいます。パリ国立高等鉱業学校出身で、いわゆる「一般均衡理論」という現代の経済学のベースになる理論を初めてモデル化したのがワルラスです。

Dain:一般均衡理論とは?

読書猿:僕らがぼんやりと考えている、標準的な経済理論のベースになる考え方です。私たちは市場で「買う」と「売る」という行為を突き合わせ、そこで決まった取引に従って行動している。つまり、「誰かが経済を操っているのではない」という発想ですね。マーケットに参加する人はみんなプライス・メーカーである、と。

 経済学の入門書では最初、1種類の商品の売り手と買い手の取引を検討するところから始めるけれど、本当はさまざまな商品の間で価格と取引量は関連している。たとえばコーヒーの値段が下がると紅茶を飲んでた人が乗り換えて、紅茶の消費が減るかもしれない。パンの値段が上がったらパンの消費が減って、バターの需要に影響するかもしれない。そういうことを全部つぎ込んで、n個の変数を持ったn個の方程式が書けるだろうと。変数の数と方程式の数が一緒なら方程式は解ける。だから均衡は成立する、というのがワルラスのアイデアでした。これは数学的に正しくないんですけど(笑)。方程式と変数の数が同じでも解けるとは限らないんで。その後、もっと数学的に厳密にやった一般均衡理論がつくられます。

 ここで、Dainさんが紹介していた「経済学理論と経済学者の人生には関係がある」という話になります。

 伝統的に「経済的な左派は「市場にまかせっぱなしではダメなんだ」と市場介入の必要性を解くので、「一般均衡理論」は理論的にはニュートラルでも、市場に任せるほうがいいんだという右派が支持することが多かったんですが、この分野を切り開いたワルラス自身は、左派どころかバリバリの社会主義者なんです。

Dain:なぜ、そんな彼が一般均衡理論を主張したのでしょうか?

読書猿:ワルラスは、「現実は一般均衡理論のようなことは起こっていない」と思っていたんです。フランス国立銀行の株を持った200人くらいのお金持ちがいて、現実にはそういう連中がフランス経済を牛耳っていると考えていた。フランス革命後は実際、そうだったから。そういう状況を批判するための、ある意味では「社会批判のためのユートピア」というか、現実と対比する理想状態としてモデル化したのが、を支えるのが一般均衡理論だったというわけです。

 つまり、一般均衡理論はワルラスが現実だと思っていた経済構造を批判するためのものだったのに、教科書に載ってしまって、しかも世界中に広まり、「経済とは相互依存で成り立つのであって、一握りの人々に支配されているようなものではない」という経済学のドクトリンにまでなってしまった。ワルラスの一般均衡理論はその後、スイスのローザンヌ大学時代の弟子だったヴィルフレート・パレート(およびローザンヌ学派)に引き継がれていきます。

Dain:一般均衡理論が今世界中で教えられている経済学のベースになっているのは、なぜなのでしょうか? どこがそんなにすごいんですか?

読書猿:それ以前の経済学は因果論的な説明に終始しました。たとえば、国の富の源泉は何だ?農業(土地)か、貿易か、それとも労働か?といったことを追求した。じゃあ、そういう「根っこ」をつかめば、経済は理解できるんじゃないか、というのがワルラス以前のアプローチだった。ちょっと飛躍して言うなら、アリストテレス的な理解の仕方というか、「石が落下するのは何が原因なのか?」「石にとって自然な場所が地球の中心だから、その場所に帰ろうとして落下するんだ」みたいな。これがニュートンになると、運動の原因なんかは問わない、どういう風に運動するかモデルが作れればいい、と考える。

 古典派の経済学は、いわばニュートン以前の世界把握に近かった。

 そういう世界(社会)の捉え方観を放棄するきっかけになったのがワルラスの一般均衡理論で、原因を捕まえれば全部が説明できるわけじゃない、と言った。社会のあちこちでばらばらに行われている数多の売り買いが、価格を通じて、互いに影響を及ぼし合っている。いわゆる需要と供給の話が無数にあって、それがみな、ゆるく結びついてある感じです。

因果論で、社会は説明できない

Dain:それ以前の経済学とは、マルクス経済学のことでしょうか?

読書猿:マルクスは、古典派経済学の完成者といわれる、当時最先端だったリカードの理論に立脚して、自分の理論を展開してます。リカードは富の源泉が労働であること、それから階級の対立が生じるというところまで到達していた。マルクスはそこから話を一歩進めて、資本主義における利益の源泉を「搾取」とし、それが利子や利潤につながる、と言って、つまり、「搾取」という「根本原因=諸悪の根源」を名指しして、資本主義を廃するストーリーを正当化した。

 そういう「因果論」なら革命は実行できるかもしれないけれど、「均衡論」的世界では革命は成就できません。だって、1つの「根っこ」が諸悪の根源なのではなく、いろいろなことがお互いに影響しあっていて、根本的な要因というのは特定できないから。これはもう、社会認識の大転換でした。ワルラスの後では、「いまさら『○○が原因』みたいな話を持ってこられてもな~」となります(注4)。

Dain:読書猿さんオススメの『社会を知るためには』(筒井淳也、ちくまプリマー新書)に出てきましたね。意図せざる結果の話。単純な因果論で現代の複雑な社会を理解するのは無理だという。

読書猿:ワルラスの話が面白いのは数式で書けるところです。数式で書けると、違うモデルがすぐに作れる。

Dain:ちょっと変えれば全部が変わる。数式がシンプルであればあるほど、パラメーターが少なくなり、パラメーターが少なければ少ないほど、変化の振れ幅がでかくなる

読書猿:そこが数式のダメなところでもあり、魅力的な点でもある。森嶋通夫という、イギリスにわたった日本人の数理経済学者がいて均衡理論の動学化で有名な人なんですが、リカードとかマルクス、それにワルラスの理論を数理的に展開した本を書いてます。

 ワルラスについて書いた本も面白くって。ワルラスのモデルは、ざっくりいうと方程式の数と変数の数が同じ連立方程式でできていて、方程式と変数の数が一緒だからこの連立方程式は解けるよね、だから均衡解がある、イコール経済は一般均衡する、と。で、森嶋さんは、ワルラスの前提をちゃんと数式で現すと、方程式のほうが変数より一つ多くなるのが本当だ、と(笑)。じゃあ解けないじゃないか、経済は均衡状態に達するとは限らず、物あまりだって生じる。一本、方程式を増やしただけで、ワルラスのモデルはケインズのモデルになった、と。

Dain:経済学で私が気に入らないところは、自分の思うとおりに、恣意的に数式なりを加えればパンダがクマになったりするところなんです。新しい経済現象が起きても、経済学者はモデルが間違っていたとは言わない。その代わりにパラメータや数式を増やす。

 象徴的な例が、「ブラック・スワン」です。2007年からのサブプライムローン危機のとき、「誰一人予想もしなかったインパクトのある事象」として、「ブラック・スワン」という用語が出てきました。けれど、それって、「経済学では説明できません」という敗北宣言だと思いました。

 新しい現象が起きるたびに、パラメーターをいじって説明したことにするか、既存のモデルをどう誤魔化しても説明できない場合、新しい用語をひねり出してOKとする。

読書猿:学者に言わせれば「それで何が悪い」となるでしょうけれど……確かに、議論の余地がありそうですね。

(注4)面白いのはケインズは経済、特に「どのように所得が決定されるか」について因果的に考えていたことです。処方箋を書くという発想なら、介入すべき「根本原因」を想定しなきゃならないわけです。こうしたケインズの理論をヒックスという経済学者が均衡論的に読みかえたものが、今も学部向けマクロ経済学の教科書に出てくるIS-LM分析で、これによってケインズの理論は標準的な経済学に取り込めるようになりました。



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